マンデラ3 世界線の混線

またかと思わないでほしいであります。

この混線を今「確認させられている」理由があると、

昨日タイムウェーバーのお客様と確認したところです。


だいたいタイムウェーバーの前後するお客様は、

何かしらの縁があるのか、一回前の方との話が、

次の方に必要になることがあって、とても興味深く思っています。

まったく同じ内容の話をされることも多々あります。



2/2の金曜日にセッションをした方をMさん、

昨日、2/5月曜日にセッションした方をYさんとします。

どちらもお名前がMさんなので(;’∀’)、便宜的にそうします。





金曜日のMさんは、英語が堪能で、

機会があればオーストラリアに行きたいなという話をよくしていたので、

世界線が混線しているらしい、という話をしまして、

「オーストラリアの位置はどこか」聞くと、今の世界線の方。

ニュージーランドの位置がおかしいというと、私がおかしいと笑ってくださった。

しかし!

Mさん「晶子さん(北村の事)、でも、ほら、以前私が話をしたじゃないですか。ニュージーランドの位置がおかしいって。あんな近いんだなって」

K「(・・・????)えーと、した記憶がありませんね、オーストラリアに行きたいとは聞きましたけど・・・先日ブログを書いたのをもう読んでくださったんですか?ニュージーランドの位置がおかしいって書きましたけども」

Mさん「え?ブログはまだ読んでませんね。いえいえ、そういうニュアンスではありませんよ、私が思っていたよりもずっとオーストラリアに近いっていう感じの話をしたじゃないですか~。え?誰としたの?そんな話仕事でもしないし・・・」

北村に記憶無し。

互いに????となったあとの、Mさん。

Mさん「でもですね、私、そういうパラレルとかは分かりませんけど、何かの世界線が混線しているっていうの、理解するんですよ。実はですね・・・」

その先の話を要約するとこういうことです。

・Mさんは、英語が堪能なので、それを生かして様々な仕事をしています。

・その仕事先の人と話をしていて「そういえば仕事の面談をしたって言ってましたよね、結果はどうだったのですか?」と問われる。

・本人に記憶はない。「????」となって、「なんの話ですか?」と問い直すと、

・相手から、「え?前回の面談で、新しい仕事の面接に行くんだって言ってたじゃないですか」と言われる。


というようなことを、先月体験したそうです。

だから、パラレルというか何かがおかしい、ということには気付いていたそう。

彼はどの私と話をしたのだ?という。

それを、私は、Mさんと、同じように、先日の金曜日に行ったわけですね。

「誰が誰と話をしたのだ?」と。

ある種の北村が、ある種のMさんと「ニュージーランドの位置っておかしい」という話をすでにしていた(Mさんのニュアンスは、私の思うような、オーストラリアの右上とかではなく、どちらかというと、もっと離れていると思ったのにという内容)。今の私には記憶はない。



私は誰と話をしているのか・・・




その次。

昨日。

Yさんとの会話では、

Yさんは、私と同じ記憶の持ち主で、オーストラリアは真ん中、ニュージーランドは右上の人。

初めて合う、子ども時代の世界線が同じあたりにいた方でありますよ。

「え?なんで?こんな位置にありませんでしたよ、朝鮮半島も」と。

全く同じですー!おー!うれしい!!

「もう何言ってるんですかあ~」って何度言われた事か!!!


なので、YさんにMさんと話した話を少しさせていただくと、

「混線しているのは理解する」とのこと。

理由は、ずっと同じだと思っているパートナーが、

微妙に性格が違ってきている、とのこと。

それもどちらかというとよりよく変わったそうなので、

よかったと思っているらしい。



そこから、世界線が混線しているのに会えているというのは、

本当に奇跡的な事だ、という話になりまして。

混線するということは、会える人には会えるし、

会えなくなることなんだけれども・・・

ある種の学びが近い人同士でないと会えないだろう、と。

なぜなら、自分の興味の波と相手の感情の波が交差しなくなったら、

会えなくなる・・・。

これだけ記憶が変わっても、バージョンが変わっても、

会えているということ。


でも、Mさんとの通り、ある種別バージョンでも会っていて、

全然違う話をして、今に交差している。

会えていると言っているけれど、おそらく私がある種の学びを携えて、

MさんやYさんを作り出しているという事。

じゃあ、どのバージョンかの私と話をして今会えている私は、

私が今認識している自分以外の自分バージョンは認識することが出来ないのに、

今の自分以外の最高の北村さんと、最低の北村さんが誰かと話をしていて、

その無限にある北村さんのバージョンの中から好きなものを選び、時間を道にして

未来においてあるバージョンのMさんやYさんと合流してまた話している。

なので、あまり急にバージョンが変わると過去と思われる記憶でさえも「一致しない」。

過去の体験は変えられないと言う。よく、「その受け取り方を変えればその意味は変えられる」というけれど、そもそも、過去それ自身も、変化しうるものかもしれないというか、幻想かもしれず、バージョンが変わった私は、過去の経験も変化しているかもしれない・・・(なぜならあまり過去についてや過去に関わった特定の人物について、そんなこともあったような?そんな人もいたな?程度で強い感情が湧かない)。このオーストラリアがこんな混雑した位置にいる世界線にいる今の私の過去は、もしかしたら、「全然違う」可能性がある・・・?

では、私は、いったい誰と話をしているのか・・・????

すべてが実でありそしてすべてが幻想であるというのが同時に成り立つのが地球、それを体が認識しようとしているらしい?幻想、パラレルとはこういうのをいうのだろうか?

と、壮大すぎる話題になっていきました。

文字で読んだだけでは意味が分からないから、

私が「すべては幻想である」を経験したいと思っているんでしょう。

お釈迦様が言った、この世はすべてマーヤーであるという言葉、マヤの暦、とか、マーヤーには「幻想」という意味が当てられているらしい。時間も「測ることが出来る」と思い込んでいるが、時間は「幻想」だ、ということを、この数年で学んだ。どうも、「ま」「や」、という音が表す世界、幻想の中にいる私は、それを「面白い」と思っているんですよね。

運命、命を運ぶことが、自分で選択できる、決まってないって最高じゃない?!!!

それに共感してくれるからこそ、MさんともYさんとも話せている。

北村さん何言ってるの?と誰かが思った段階で、

おそらくその方と私は秒で会えなくなる訳です。

(もしくは、このバージョンの私とは会ってなくて、「運命はある程度決まっている」というバージョンの私を創り出して会っているはずです。)

(もはやタイムウェーバーはいずこ状態)

同じ学びを共有していないと、おそらく会えていないだろう、と。

だから、共感を示してくれているMさんやYさんと話している私が、

MさんやYさんをある意味「創り出している」。

そのバージョンの彼らとしか「会えない」。

そうだとするならば、相手は、自分次第で幾らでも可変する、というのは、真実であるかもしれない、むしろ、相手は私が作り出しているかもしれない、と、Yさんと話をしたんです。


そうすると、「感情」というものが、おそらく「ベクトルの位置」になるだろう、と。

もし自分が他人に対して、「不快」な感情を得ているとしたら、

それを作っているのは「私」なのだから、

自分が望む位置があるのに、自分が意図し間違い、プログラムし間違い。

もしくは、波違い。波違いの場合は離れてから改めて関係性を考え直すか

相手と仲良くしたいならば、作り直せばいい。

相手の認識を「私」が変えさえすればいい。

結果は現実で「見る」だろうけれど、それは過去にコマンドした結果にすぎず、

今の私はただ体験して見ているだけかもしれません・・・・

だから、ノートに書く(意図をする)、というのも

未来に対しての自分へのコマンドかもしれませんね。

でも、それを自由に出来るようになるためには、

ある種自分の周りのエネルギーと情報をかなり減らしたり、

整理したり、統一したりして、流れやすくする必要があって、

私の仕事はそのサポート、ですね。

自分の体の周りに沢山の無駄なコマンドがたくさんあるんですよ。

コンピューターに似て、一つ一つ、それを全部現実化してくれてるのがミナカヌシ・・・というか私。

スクリーン投影と言ってもいいですね。

考えたことそのまま。

なので、いいことも面倒な出来事も起きる。

親ガチャと言ってますけど、上で決めて来ているらしいので、最高で最善の采配で、

その前の自分が作ったコマンドの残り(カルマ、フィルム、種)を実行させてくれる・・・。

(眠い、疲れた、アイツきらい、ムカつく、できない、お金がある無い、などなど)



何か理想の自分、理想の外側があるならば、

自分で「デザインし直せる」気がするのです。

すごく力が湧いてくるような気がするんです。

全員配置換えもできるし、付与する意味付けをしているのも全部「私」。



マンデラ効果と同時に流れてきたアメノミナカヌシ様って結局何なのか。

アメノは、アマノ、宇宙の、という意味。

ミは、御、すばらしいものであり、三であり(心と体と魂の三)、身。

ナカは、中、中心、ヌシは、いる人っていう意味ですね。

大宇宙の中心の神様、と言われていますが、そうでありそして

「私の中心にいる、神様の御霊分けされたエネルギー=「私」」。

だから全員中にミナカヌシさんがいる。

そもそも、神様完璧で、何でもできちゃう。

だから「ミナカヌシ様ありがとうっていえばいい」という事になるらしい。

(ありがとうを言い続けるという小林正観先生と言っていることは同じなんでしょうね。

ホ・オ・ポノポノも同じですね。)

そのコマンド、経験、レベル違い、全部作っていて、好きに経験できちゃう。

我々が、小さく、思いを使って、

配置換え♡とか、あの人は「こういう役割ね!」って言っているのもまた、

「たのしそうだね!」ってきっと見て笑っているんだって思うのですよ。

(配置換え、全員に割り当てしなくていいですよ。自分はこうしたいと思うだけで周りは自動的に変化しますが、どういう役割がその人に割り当てられているかに気づいて、嫌だったら、どういう学びなのかを考えて、自分の思いを変えて、「そうじゃない」って配置換えすればよく)

子どものおままごとのシナリオを、大人である私たちは変えようとはしませんね。

神様が我々を見て思うのは大人が子供のおままごとを微笑ましく思うのと一緒のレベル位。

(大人である私たちは、だから、そこで、「私は何もできない」っていうおままごとしなくていいですよね?!何でもできる!でいいと思うんですよ。)

神というか、純粋なエネルギーとはそんな印象のもの。

なにせ、寂しくて、最初自分と同じものを作りたかったのが出発点なのだから・・・。

寂しさ、というものが人間の根底に深くあって、

ほとんどの事を、さびしさの穴埋めで選んでいることも多いと思う。

その感情と話をしてもいいかもしれない。

(ちなみにここまで話してYさんのタイムウェーバーを取ると、「神に見捨てられたという思い」のような内容が出てきて、互いに笑いましたね。それは、故郷に戻らなければならないとか、神が可愛いから子供を旅に出させたのに「見捨てられた・見放された」と思った、というのは、あるようですね。一人で生まれ、一人で死んでいくのだけど、だから、「寂しい」という感情とは原初の感情であって、よくよく折り合いをつけていかねばならないのかもしれませんね。)

だから、私たちが自分にできることは、

「最高に自分が好きなものを創り出す、創り出していい」という許可だけ。

うまくいっている自分もそうでない自分も今のバージョンでは意外と「お気に入り」

なんですよ。その執着を外していけば、いいんじゃないですかね?

誰にも遠慮はいりません。

外側に描いたことは、自分そのもの。

ということは、誰かを怒る必要もないし、嫉妬や邪魔もいらない。

全部自分に返ってくるから。

なので、できれば、なんか楽しんでいそうな北村さんを

皆さんの脳内では創り出してくださることを切に願います。

(大谷さんにしても藤井さんにしても、皆が描く理想が「同じ」だからこそ、「大きな結果」を生んでいるのかもしれない。理想郷の絵は、皆と共有するといいのかもしれないと思います。だから、他人の脳裏に描いてもらうのは「生きたい(行きたい)ベクトル位置」、それだけでいいような気がするです。)



脳内のマッサージになりましたか?

ぐるぐるしますね~。

急にこのことについて考えている私は、

多分何か必要があって、と、思っているのですが。

昨年くらいから「なんでも心底理想を思ったらそのようになるらしい」という事は理解しました。体と経験がさきだったのですね。

だからこそ、心の中の制御(ハンドルを握って自分で上手に操作する)のが一番大事だと

思っているのでしたが、その制御の方法やサインは、おそらく「感情」にあるのだろうと、

そんなことを思うのです。

だから、「感情」を経験するとき、ある種「つらい」という

時はあるかと思いますが、

それはある種の理想がある際に、

「その位置じゃないよ」「コマンドミス」「位置違い」「波違い」という、

信号、おしらせ、に使うといいよね、

ということを、昨日のYさんとの話の結論としました。

(波違いの場合はミナカヌシ様、自分の体の中におまかせの方がいい気がする)

肉体というUFOに乗って、操作しているのは私たちも同じですね。

この数年の出来事、思いを、どうにもうまく言葉にできなかったのだけれども、

使命でもない、できることを最大限やったつもりです。

最大限、できる限り集めました・・・!

(手前みそですが、我が家の商品には、心身共に本当に救われました)

この寂しさと折り合いをつけなければならないし、

そして、私が理想とする「みんなが生きている世界線」を作り上げてもいいんだって

昨日話していて、改めて思うことが出来たんですよね。

その理由にもちろん我が家のグッズがあってもいいし、なくてもいい。

思いや目的が一緒であるから会えているのだけど、

肉体は有限だから、思いが一緒でも肉体を維持するために、

よかったらそのサポートに使ってください。

でも、作り上げるのは私で、私以外の人は私が作った人なのだとしたら、

好きにデザインして、みんなと楽しく生きればいいかと思い、

寂しさや焦りからようやく解放されて、本当に穏やかな気持ちになりました。

ゆるやかに交わり、交わらなくなっていくのだろうと思いますが、

最高の自分を楽しんでまいりましょう・・・!

Mさん、Yさん、どうもありがとうございました。


英語が得意なMさんに、「Mercy(慈悲)」というエッセンスがタイムウェーバーから選ばれて、「Compassion(慈悲)」とニュアンスについて最後に議論したんです。

非常にざっくりですが、

マーシーの方が、上から「許してやろう」的な慈悲。

コンパッションの方が、「がんばってね」的な並列の慈悲。

そんなことを互いに確認して終えたのですが、

マーシーとは何か、と、私は強く思ったので考えていたのですけれど。

自分へ嫌な事や不義理をした人を(心の中で)許してあげる、そんなのがマーシー。

そうすると、その人との関係が非常に有益なものになって、

バチンと切れてしまう世界線とか、互いに憎みあうものではなくて、

同時に世界線に存在するけれど、0/100ではなく、

ゆるやかに繋がっていける感じになるのだな、と・・・

そんなことを思ったりしました。

さらに深く言えば

そのバージョンの誰かを作ってしまった「自分を許す」のでしょうね。

(私はそうしてしまった過去の私をゆるしてやろう、という、上から?未来から?学びのためにその人は必要だったわけで、その体験自体も必要な事だけど、嫌なものは嫌ですからね。見たフィルムを感情から引きはがすような、まあいっか、というために、なんでしょうね。)

皆さんの学びが完全に私の学びでもあるのですよね。

教えるとは、そういうこと、らしいですよ。

こうして日記を書きながら頭を整理して、

「どういう世界に生きようかな♡」と

私も、おままごとを楽しむ許可を出しているのです。

ここまで長い長い説明の旅を読んでくださって、どうもありがとうございました。

皆さんもそれができるようになったら、

私もすごく上手にできるようになるんですよ。

だから、できるようになって、誰かに話してみてください。

ぜひやってみてくださいね!

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