昨日のカウンセリングでとても興味深かった話を書こうと思う。
(普段と文体を変える事は気にしないでほしい)
相手はプロの画家さんなのだけれども、
お互いに「苦手」としている事が真逆な割に、
その自分がプロとして生きている世界で叩きだした答えはまったく同じだった。
私は絵を描きたいと最近急に思って、真剣にソフトを探し始めていたので、
「いや~本当に〇からなんですよ、リンゴとか絶対難しいし、猫とか描きたいんですけど。データで描きたいな、と」
なんて話をプロの絵描きさんに、恥ずかしくもさせていただいた。
私の祖母は60まで看護師を勤め上げて、定年で時間が出来た60から絵を描き始めて、亡くなる前病床に絵の本を届けると、やはりベッドの上で絵を描いていたらしい。祖母から貰った少しの絵は、プロのそれではないシュミの範囲内だけれども、いつ見てもとてもあたたかい。何歳からでも何でもできる、という私の心の支えのために、事務所に飾ってある。
「私の先生の話では、「10年やったらプロになれる(@条件として手を動かし続ければ)」と言われていたので、やりたいと思った時がいい時だと言いますよ」
とありがたくも逆にアドバイスをいただいた。
それは私がいつも皆さんにする話だし、10年後、2031年は、おそらく生きている可能性が高い。10年やったら北村も会計以外の仕事もしているのと同じで、絵もなんとなく描けるようになっているかもしれない。
逆に、お客様はnoteやブログを書きたいと思っているのだけれども、うまく書けないというか、更新ボタンを押すことに抵抗があると言われた。
私はプライベートも含め15年以上何かしらの文章を書いていたのだけれども、最初のブログは4時間かけて書いて、更新ボタンを押せなかった記憶を思い出した。
その当時からのお付き合いの人も今この仕事のブログも見て下さっていて、ご縁でご支援下さっている方もいる。きっと懐かしいに違いない。当時の私の文章のへたくそさ(もちろん若かったのもあるけども)を思えば、よく付き合って下さったと。15年後、なんとなく人が読んで下さって、なぜか繰り返し読んでしまう、と、言われる文章を書いているとは思えなかったと思う。あくまで文章を書くことはただの趣味だったので、仕事になっているとは当時はまったく思わなかった。その延長で、少しのソフトで遊んでいたことが、いまの仕事でも生きている。遊びにムダな事は全然ないというが、本当らしい。なんでも遊びから始めてしまうのが実は最短ルートなのかもしれない。だとすれば人はもっと遊ぶべきだ・・・!
何度も毎回4時間から半日の壁にぶつかって、でも、何かを話したいと思って、書き続けていたら、今は、ある程度自由に好きに書くに至っている。
ラジオも、特段話すことは得意ではないけれども、まあ何かやり続ければ、と思って始めた。
ということは、今、絵を描きたいなー!と思う私は、15年後、またブログで絵を使って皆さんに、こうエッセンスを使うよ、とか、お話しをしているかもしれない・・・。と思うと、いま、絵を描く事は全然アリで、シュミの範囲内で始めてみればいいのかもしれない。
お互いにまったく同じだという話になったのは、「よく見せようと思ってやらないと、最もうまく書ける・描ける」。違う事を仕事にしていても、まったく同じことですね!絵なのか、文章なのか、それだけですね!と・・・。
このブログを書く際に実は何も思っていない。
気を付けている点は、書く際の自分の精神状態だけだ。
なにかを意図して相手を誘導しようとすると、行間の空気でどうせバレる。
最近特に、人の本音や人間性がそこかしこから滲み出して、あぶり出しになっている。私も含めてだ。どうせあぶり出し、赤裸々なのだから、必要なのはその自覚位だろう。
他人の何気ない一言を見て、書かれていない本音と空気が読めて、あ~・・・、と、思う時が時々ある。書かれていない行間、使う言葉、書いた内容にすべてが詰まっている。
21年だし、今、審判、タロットカードの審判辺りに来ているのかもしれない。
一度丸裸になって、持ち物を落とす時期、人がそれぞれに分かれていく時期に来ているのかもしれない。人生足別離、お別れもある、「さよならだけが人生だ」と井伏鱒二は訳した。高校時代の書道の先生が卒業生に向けた言葉だったが、人生でこの言葉以上に刺さったはなむけの言葉は無かった。本当に出会いと別れしか人生には無いなあと思っている。
ちなみに4時間書いて更新ボタンを押せなかった理由は、その時は全然理由が分からなかったのだけれども、今ではよく分かっている。でもその答えは私だけの答えなので、正当性を証明すべくここに記載するようなことではないとも思っていて、それぞれの人にそれぞれの書き方があっていいと思っている。だから好きに書いたらいいと思う。きっと絵も仕事も人生も、なんでも同じ、なのだろう。
なにか表現したものについて、もう外側に出てしまったことは、受け取る側の好きも嫌いも相手に委ねる事にしている。だから好きに書けるのかもしれない。相手の喜びも悲しみも苦しみも怒りも楽しさも刺激するだろう。そこにそういう感情を持っていると分かる、リトマス試験紙になるだろう。
昨日話をしていて面白かったのは、私は宗教家にも詐欺師にもなれない事に気づいたという話だ。なろうと思ってなってるものでは無いのだけれども・・・。私の仕事と、彼らの違いについて、明確に分かった。
皆さんが溺れている時にかける声のかけ方が違うのだ。(ちなみに私に関わる皆さんが溺れていると言っているのではない。何かのご縁で私が近くにいて、もし手を貸してほしいと願うならば、私が手を貸せる人、という意味の話である。)
宗教家は、私を信じればすべてが救われますよ、大丈夫ですよ、と言う。
詐欺師は、あなたは辛いですね、話を聞きますよ。いやあ本当にお辛いですね、分かります。すごい分かる。あなたは悪くないんですよ。で、そこから立つには100万円程頂ければ、立てるんじゃないですかね(実際にはお金をもらうとどこかへ行ってしまう)、と言う。
私の仕事は、「もしもし、溺れているようですが、実はそこ水深30センチです。手をついて立ち上がれば立ち上がれますがまだ溺れていたいですかね?どうでしょうか(立ってもし同じ方向でよければ一緒に歩こうと言ってみる)」と言うのが私の仕事なのだ。
なので、上二つの仕事を求められる場合と、「まだ私は溺れていたいんです」と言われる場合は、私は仕事を断ってしまう。逆説的に少しは私に腹が立って怒って立ち上がろうとする気力になってくれればいいのだけれども。自ら選択している。溺れている事が私の人生だと言うので、立てますけどどうですか?と聞いて、いいや私は溺れているんです、心配です、困りました、どうしたらいいか分かりません、また次回お金払いますね、と言われる。私が頂くのは手伝わせていただくその御代であって、伝える内容や答えに対するものではない。毎回まったく同じパターンだったりする。あなたはただ無限の豊かさを得る権利があって誰でも手にできるからただそこに向かって立つだけです。その通行料は取りませんから、でも私は水深30センチでも溺れていたいなら止めはしないですけど、と。毎度、先生を探しては叱られたい人もあって、喝を入れられないと立ち上がれない人もいる。あえて最悪のケースになったら、「ああ、馴染みのあるいつものパターン♡(私は愛されている)」となるらしいのだ(その最悪の想像を止められないと言っていた)。
そんな話をしていたら、「おなかをすかせた人に、魚を与えるか、魚の釣り方を教えるかの違いですね」と、昨日は絵描きさんからの返答があった。
なるほど。
でも私は魚の釣り方自体は教えはしていない。が、実は誰にでも魚は釣ることができるし食料はどこにでも豊富にあるんですよ、と、その前段階を教える人なのだろうと思っている。
どうやら溺れていると思い込んでいるようですけれども、誰でもそこから立って一緒に歩けますよ、なぜ溺れたのかはこんなことはありませんでしたか?それが理由みたいですね、と、伝える仕事なのだ。はた、と、気づいて、「あれ?本当だ?なんで私こんなところで足をばたつかせていて進めなかったのだろう?おかしいな?やだもう先に進もう!」と、目覚めた時の、皆さんの変化の具合は、筆舌に尽くしがたい程の私の喜びだったりする。自分で自分をとらえていた鎖を断ち切り、私は皆さんと一緒に歩きたい、一緒に成長し、進みたい、それが仕事の目的らしい。
手段は販売しているものでお伝えはしてもなぜあえて知っている釣り方(ワークの方法)を教えないかと言うと、この精神世界でのやり方や答えではなくていいからだ。のめり込みすぎて人生を破綻させてしまった人、あんなに素晴らしかったヒーラーが光ばかり強く求めすぎて強く闇落ちした姿を、私は何人も見ている。たくさんのヒーラーとの出会いと別れもある。かえってこの世界に触れずに普通の生活をしていた方が良かっただろうと思う程に、病んでしまう。何のためにこの世界に来たのだろう。光を求めたからに違いないのに、闇落ちする姿ほど悲しいものはない。光を求めすぎて闇落ちしたのと同様、いつかその闇の底にタッチすれば、ぱっと光の方へ戻ってくるだろう。そういう矛盾も同時にある。それを待っている。
自分の生きている世界、プロの世界、本業、子育て、介護、それぞれで生きる事はそれだけで十分スピリチュアリティの表現に足るものだという話を、改めて先日古井さんとしたばかりだ。真のスピリチュアリティとは、ただ、自らを生きることだ。残念な事に死んでも別に私という個性は消えない。肉体があって経験できる方がとてもありがたい位だ。いつか個性が消える日は、大元にほぼ合体するに等しいほどになった頃だろう。本体とは今のままでは合体しない。(注:本体の欠片は誰の中にもあるから一体であり一体ではないというイメージ)死んだら太陽に肉体をもって戻りますと言うようなもので、溶けてなくなるか分解するだけだ。同じ振動にもどるまで、旅は続く。だから、肉体はありがたいし、いつか肉体をもたない存在になってもまた、もう少し旅は続く。だから死んですぐに地球に転生しなおしてしまう。
遊ぶといえば、ここは、天から滑り台に乗って降りてきたような公園、遊園地のような場所だ。せっかくだからT〇Lに行って、迷子になっている時間は少ない方がいい。何か楽しい出会いを楽しみ、景色を楽しみ、友達とランチやお茶をして、パレードではダンスを踊り、時には面白いアトラクションに乗ろう。夢のような場所であり実際夢の場所なのだ。閉演時間は人生の時間と同じで、時間は誰にでも平等に与えられた最高の豊かさだ。きっと閉演時間までどのルートで回ればたくさん乗れるか算段するだろうし、憧れの場所に着いたらそれだけでワクワクするだろう。遊園地ではきっと、ワークをしようと思わないだろう。楽しい遊園地で、私の人生は○○だ・・・!ときっと叫ばないだろう。大好きなアトラクションに向かって走るだろう。その時に転んでけがをしたりお財布を落とさないように保護するかもしれない。その人生のお供が少しあればいい。あえてこの精神世界やワークの方法では無くてもいいから、だから、エッセンスを自分の生活に取り入れる位でも十分だと思って紹介するに至っている。そんな話を別の人とした。
具体的に釣り方を教える人は、たくさんのヒーラー、本の著者、エネルギーワークのセミナーを開く事で相手の可能性を開く事を人生の喜びにしている先生方なのだろうと思う。いつか自分もその世界に行くかもしれないし、行かないかもしれない。それは未来に委ねる事にしようと思っている。
あくまで、救う人には絶対にならない、と、仕事を始めた当初から決めている。救う人と救われる人という構図は上下関係、まだ二次元の関係性であって、並列の関係性ではない。いつでもお互いにその役割を担ってしまう。救われる側は、いつでも何かしらの不自由を持っていないと、私に会うことが出来なくなってしまう。医者ではないし私は他人をコントロールしない。ただ私はいて、「立てるよ」と自主性を引き出すのが仕事だと思っている。だから、セルフクリアリング、という仕事を始めた。誰かの良きアドバイザーであり、友人でありたい、きっとそんな事なのだろうと思う。
そもそも論で、空気を自由に吸う権利を疑う人はいないのに、「食料(お金)は豊富にあるはずがない!こんな私が食料を貰えるに値しないのだ!」と何度も自分に書き込んでいる人のマインドを反対側に持ってくるのは、至難の業と言うか、中々深く刻まれていて戸惑う事もある。「どこにでも豊富にありますよ」と何度も言うのだけれど、「え~食料(お金・健康・自由・職業・時間・美などなど何でも自分の希望の全て)が豊富にあるなんて信じられません!」と挑まれる。「あなたは、立てるというけれども、私が立てることをあなたが証明して見せてよ、お金払ったでしょ、できるんでしょ」と言いたいであろう内容の事を溺れながら言われる事もある。私はあなたの代わりに足になって立てはしないのだ。遊園地に置き換えれば、私はアトラクション前の交通整理の人だろう。なのにもしあなたのファストパスを奪ってアトラクションに乗ったら、あなたはなんというだろう。「人の権利を勝手に取り上げるなんてなんてひどい人!」と言うだろう。
溺れたり転んで困っている人には、もちろん手を貸す。「手をつけば自分で立てます」とだけ伝えて、立てるように少し手を貸すのが仕事だ。そして、立って歩きだした人と、どっちの方向へ行きましょうか、一緒に豊かさ行きの電車に乗りませんか、と、ささやかながらお話をさせていただくのが仕事だ。でももし自ら、もう一度同じようにその場に伏せたなら、仕事は終わる。ちょっと悲しいけれども、もう少し溺れていたい本人の希望を私が取り上げるわけにいかない。二次元の分離自身も誰かにとってはたのしい素晴らしい仕組みのおもちゃなのだ。光と闇、正義と悪、正しさと間違い、なんでも二つに割ることが出来るこの世界、二次元の世界を極めるために地球に来ている人もいる。私はおもちゃを取り上げるような立場になってしまい、かえって不要な人間になり、残念ながら、仕事はさせていただけない。
でもいつか私が言った話がふと「あれ?溺れていた?」となる時も来るかもしれないし、それは10年後かもしれないし、一生溺れている事に気づかない事もある。私は詐欺師になるつもりはない。気付きは気づいた人、それぞれの人生をかけた宝物なのだ。それを否定する事も盗む事もしない。そして助はしても救わない私を、恨みがましく思う人もあるかもしれない。恨まれたままでもそれでいいのだ。イエスでさえ2000年の間、誰かに愛され、憎まれてきた。彼をただのオジサン(普通の人という意味)に出来る日が来るまで、それはまだ続くだろう。彼は救わなかったから、人が救われるのだ。「誰にでも豊かさも命もパンも食料もそこにありますよ」と伝えたかっただけなのだ。奇跡に見えたことは誰でも起こせる、それが出来ると見せただけに過ぎない。あえて最高の敬意を込めてオジサンと書かせていただいたが、イエス、仏陀、たくさんのアセンデッドマスター、それぞれが命をもって答えを見せたことを、とても尊敬している。
最近のカウンセリングは、中々に深いなあと振り返る事が多い。
妙に熱く語ってしまった。(それもまたたまにはいいか、と、思う)
TWが、人生の底、心の奥底まで拾ってきてくれるからだろう。
妙に深い話になって、すごくおもしろいし、すごく勉強になる。
〇を書く、描く。それが人生、らしい。
いつか世界を切り分ける〇自体も大きすぎて境界が無くなるのかもしれない。
それがきっと大元に帰る日だ。
ちなみに、仕事がうまくいってもいかなくても、それでいいと思っている。
それ自体がすべての答えになるからだ。
人生には何の証明もいらない。
そんな話をした昨日の出来事の記録です。